オリンピックの政治利用について

オリンピックの政治利用について

「平和とスポーツの祭典、オリンピック」が来月の上旬に韓国の「平昌オリンピック」が開催されるわけであるが、「平和とスポーツの祭典、オリンピック」という言葉の「平和」という言葉自体政治的で個人的な言葉という感が私にはあり、「平和」という言葉に北朝鮮のような独裁国家のオリンピックの政治利用の付け入る隙があるのでわないかと私は考えている。「平和」と言ってしまえば誰も文句は言えなくなってしまうというのは誰もが経験したことがあるだろう。そこを上手くつかれてしまっているのではないだろうか。そもそも「平和」という言葉は「リベラルな民間団体」と「国家機関(主に軍事関係の機関)」の政治的駆け引きの政治的用語の耳ざわりのよい言葉として多分に利用されている感があり、我が国では左翼団体の政治駆け引きの耳ざわりのよい政治用語のキーワードとして定着してしまっている感がある。要は「平和」という言葉はこういう輩によって軽い政治的用語になってしまったのではないであろうか?そこに付け入る隙ができたと私は考える。
もし、オリンピックの政治利用が気に入らなければ「平和とスポーツの祭典オリンピック」の「平和」という非常に政治的で個人的な言葉を外すことをお勧めする。そうすれば、だだの「スポーツの祭典」となり「政治」と「スポーツ」は関係ないので政治とは簡単に切り離せるのではないか?それか、もう、オリンピックをやめちゃえばよいと考えたくはないのだが、何かこのように「オリンピックの政治利用」のニュースが騒がしくなるとオリンピックを楽しみにしている私の他に、このように私の一部が考えてしまうのである。まぁ、「オリンピックをやめろ」という言葉も経済評論家の内橋克人氏のような一部の左翼の政治的用語として使われてしまっている所があるのだけれども。(blogに書こうと思っていることを一部抜粋)

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