夢よりも大切なもの

夢よりも大切なもの

03/04/08

 「お元気で」という言葉を咄嗟に口にした。既に忘却の彼方にあったその言葉が自らの口からすっと出てくることにまた同時に驚いた。そして数え切れないほどのまとまらない考えと感情が頭を支配し、顔を真っ赤にしながらその人の前から逃げるように姿を消して車を降りた。それから自宅までの暗い帰り道、涙がとめどなく流れ続けた。これは何を意味しているのだろう。
 その人、Yさんは、ボクが仕事で入った会社に自分の事務所から出向していた、ファッションデザインを仕事としている方でいわゆるアーティスト。今日はそのYさんの出向期間終了に伴って、現在の会社を去る日だった。家では大学生に通う2人の娘さんを持つお父さんになるから、現在のボクから見たら大先輩だ。偶然にも田舎が同じことや帰る方向が同じこともあって、よく会社から一緒に帰っては、雑談にはじまって仕事のこと、家庭のこと、ないしは人生についてのんびり聞かせてもらったり、また相談させてもらったりしていた。
 そのなかで、これはYさんの口癖だったのだが、「俺のように生きるな、必ず失敗する」と毎日のように前途のある若者の前で言っていたのをよく覚えている。続けて彼はこうも言っていた。「表現者として仕事したいなら、したたかに生きろ」 これについてボクが解釈するところはこうだ。「アーティストとしての仕事は半ば(いやほとんど)堅気の仕事ではない。誰かのためにとか他を気にしていたら自分の仕事がなくなる。それに、そんなことを気にする暇があるなら自身の心配をしろ」
 何故このようなことを彼が言うのかは、彼の人生を紐解いてみなければ決して計れるところではないが、少なくとも20の頃から音楽家という仕事で生計を立ててきたボクにはこの点について大いに共鳴した。ファッションデザインという仕事も、音楽と同様にある程度の“感性”を求められる世界であるが、しかし仕事で最も大切なことはクライアントの要望を具現化する手段としての“感性”という名の“ライブラリ”を持つことだ。決して自分を表現することが仕事ではない。表現者であるべきはアーティストのみで、デザイナーの世界にもやがてそのように巣立っていく人たちが一握りほどいる。その境目とは、人間にとってとても“大切なもの”のひとつを失うことであると、ボクは考えている。

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